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SARP企画

【トーク】
石川舜トークショー
(聞き手:鈴木直樹2012年6月2日SARP)

「宮城県美術館「令和2年度第 I 期コレクション展」展示風景より  石川 舜《再現》1994-95年」

2012年6月2日に開催されたアンデパンダン展の中でのトークショーの文字起こしの掲載です

http://www.bookshelf.cc/sarp/exhibition/2012/05/20120522.php

http://www.bookshelf.cc/sarp/exhibition/2010/09/20100907.php

2012年・ゼロ・アートプロジェクト関連企画
『仙台アンデパンダン展2012』
「一切の権威を拒絶し、純粋な作家の領分をこの場に展開させよう!」
(1964年仙台アンデパンダン展出品要項より)

この度「仙台アンデパンダン展2012」を開催する運びとなりました。

本展は、「2012年・ゼロ・アートプロジェクト」の関連企画として、仙台のギャラリースペースが連携して協力・企画されるものです。

本展では、ジャンル、趣向、年齢、経歴、主張、価値観、党派、、、あらゆる垣根を越え、誰にでも等しく開かれた、表現の場であることが目指されます。

60年代の読売アンデパンダン、仙台アンデパンダンなどからはや約半世紀−50年の歳月が流れ、その自由で独立した精神は、様々な紆余曲折を遂げながら、依然として一個の表現者にとって、かけがえないものであることには変わりありません。21世紀の今、ここ・仙台で、あらためてその精神のあり方を確認し、そこから生まれる表現を、一堂に会してみようとする本展は、大変得難い機会となるに違いありません。

アーティストプロフィール

石川舜

1936年宮城県仙台市生まれ
1953年国画会美術研究所に入所、川口軌外に師事
1955年鳥海青児に師事
1996年宮城県芸術選奨受賞

[聞き手] 鈴木直樹

2003年、東北大学文学部人文学科哲学・倫理学研究室卒業。
同年、イベント企画団体”AOGP”を立ち上げ、
仙台市内の映画館、ライブハウスなどで
イベントの企画やトークショーの司会を務める。
宮城県内の大正~昭和にかけての美術資料を収集・整理中。

初恋だった美術

S:鈴木直樹(以下S

今日は聞き手をつとめさせていただく鈴木直樹と申します。よろしくお願いいたします。

今日はですね、2時間ほど仙台アンデパンダン展2012の企画として、画家の石川舜さんに、長い画業の最初のころから今に至るまで、凄く作風が変わって、その時期その時期で変わってくる面白い画家さんですので、その時期その時期に考えられていたことを、作品を見ながらうかがえればと思います。

石川舜さんの僕の好きな言葉にですね、「絵画は放棄しない。描かなくてもいい。中学三年生の時、絵に恋をしたときから、絵描きをやめる時は死ぬぞと決めたんだから」という素晴らしい言葉があります。

実際に絵を描かないでキャンバスを切ったりパフォーマンスをしていたときもあったのでそうした時期の事もおうかがいできればと思います。よろしくお願いいたします。

まず最初に絵に出会ったころの話からうかがいたいんですね。
舜さんは仙台のご出身で、本当に街中ですね。三越のあたりの石川写真館の御子息として生まれて、で、いつ頃絵に出会われたんですか?

I:石川舜(以下
絵はもちろんものごころついた子供のころから「舜には鉛筆とハサミと紙を与えておけばおとなしくしている」と言われて、というのはなぜかというと、うちの母親が、一生懸命まあ子育てをしていたんでしょうけどね、一生懸命子育てした子供が、私を生んで一年立たないうちに、八木山橋から飛び降りて自殺したのでね、気が狂った様になったわけですよ。それで何で死んだんだあ何で死んだんだあ、て泣いてばっかしいるようになったんで、私はもう放ったらかされていたわけですよ。それどころの騒ぎじゃねえってんで、子育てなんてことはぜんぜん母親は考えられなかったわけで。


お兄さんが亡くなられて、舜さんはそうやって絵に出会った。まあ、そうした図工とか工作が好きになられた。


放ったらかされてね。まるっきり。

わたしは7人兄弟の末っ子なもんだから、いてもいなくても良い様な存在だったんだけどもまあ、とにかく、おそらく両親とかは生んでしまった子供は育てるしかないって感じでいたんだと思うんですよ。でも全然放っておくのでね、一番上の姉が、こないだ92,3歳で亡くなったんだけど、「どうして乳飲み子をほったらかしておくんだ」ってな。でも乳飲み子も何ももうおっぱいなんてぜんぜん出ないんでね、うちの母親はね。
もうその頃はすでに、いくらひっぱっても何してもおっぱいも何もでないような育てられ方で。


ある意味、お姉さんがお母さん代わりになったわけですね。
で、中学ぐらいですか、絵を本格的にはじめるっていうか、画家になろうと決めたのは中学3年頃って話をうかがっていたんですが。


中学1年ごろまでは、私は物理の方が絵よりも良かったんですよ。90点以上取っていたんで、というと自慢するみたいですけども、家は写真屋だったのでね、薬品とかに取り囲まれて暮らしてたんで。これを飲んだら声が潰れるとか死ぬぞっとか、いろいろ言われていたからね、そういう薬品類を取り扱うのが私は好きだったんですよ。

しかも暗室の中でそういうことを、まあいたずらしてたんだな、結局は。だんだんボウと現像液の中につけておくと像が出てくるとかね、それがまた面白くて、普通の勉強よりはねそっちの方が面白かったんだね。暗室の中で薬品のいたずらをしたり、印画紙をいじってみたり、フィルムを現像したり、頼まれもしないのにいたずらをしながら暮らしていた。中学2年までそんな感じが続いてましてね。

中学を選ぶ時にも工業学校に行った方がいいのかなあなんて感じでいたもんだから。じゃあ新制中学から入んなくちゃあだめだよって言われて、東北学院ってのは考えていなくて、キリスト教っていうのが全然頭に無くて、みんなはその頃進学するなら東北学院だっていう考えがあった時代でね。なぜかっていうと新制中学っていうのはできたばかりでね、新制中学しかないなあと思っていたんだけど、私の友達の二人がなんだか東北学院を受験するので、君もした方がいいんじゃねえかって両親の前で言われてね、じゃあ東北学院でも良いですってな感じだったんですよ。
ただ宗教って言うと仏教の方が私はすごく夢中になっていたのはね、母親がまずお寺にかならず行くわけです。まあ兄が死んだせいもあるんだけどね。
お寺に行くのに私も付いていくって感じで。ほったらかしというよりは、どちらかというとまあお寺に付いていくっていうのが私の遊びのひとつで。

それでお寺についてったらね、小学校3年生のころにね、小学校3年っていう歳が空襲で仙台が焼ける年なんだけど。3年の夏にね、焼け野原のなかにいて、その年に母親がお寺に行く時についていったら、水をかぶって行をするお坊さんがいて。それのマネをして私も水をかぶる様になるんですよ何だか知らないけど。
焼けた年の冬っていうのはけっこう寒くてね。寒いところで水をかぶる行をするお坊さんを見て、私もまねをして行でもするかなって感じに。その頃、うちの母親が尊敬しているお釈迦様とかいろんなものがあって。塩釜にもお釈迦様を祀っているお堂を作った人がいたりして、それの信者の一人みたいな感じでいたもんだから。私はそのお釈迦様を祀っているところのお寺、黄檗宗っていう宗教なんですけどね。

黄檗宗のお坊さんがね、経典の解釈などしてくれる訳ですよ。私が子どもなのにね。南無とはこれ以上南はないという意味でね、これ以上のものはないという意味も含めて帰依する意味も持ってるんだよ、帰依するっていうのは信じるって意味を持ってるんだよ、って教えてくれるお坊さんがいて、タカナシさんっていう人だったけれども。そんな事をしていたときに水をかぶることを覚えてね、水をかぶっている時に母親が何か見えないか?って言うわけね、俺に。

そのころまだ絵は好きだったけれどもそんなに夢中で好きになる時代ではなかった。
それで何か見えないか?って言うからね。しょうがなくてね、見えるはずだ見えるはずだって言うからね。そんなもの見えるとかあんなもの見えるとか。眼をつぶればなんとなく見えるものもあるからね。
そしたらね、こんど見えるっていう噂がね。

母親がしょっちゅう息子のところにお参りに行っている孝勝寺、日蓮宗のお墓だったけれども、信者さん―仲間にね「うちの息子は見えるんだよ」って。
何なんだか私は全然わからないわけで、人間の運命が見えるわけでもなんでもないしね、見えるものをただ言ってるだけでね。

いろんなもの、槍が見えるとか刀が見えるとか建物が見えるとかいろんなこと言うわけですよ。
そうするとそれなりにね、信者さん達がね「当たった」とか何とか言ってるんだよ。心の奥底にある潜在意識を何かで掘り出されてるのかよく分からない、私にはね。

そのころ一番町は焼けてしまっているから、二十人町に借家を借りて住んでたんだけど、二十人町の横丁とかにね、舜ちゃん舜ちゃんって無理無理引っ張り込まれてね。だいたい中年のおばさん達の腕に抱かれてね、見てくれ、見てくれーって、こっちも香水の麻薬か何かよく分からないけどね、訳分からないままね。
何か見えないことには放してくれないからね、こちらも見えたものをでたらめに言うわけですよ。
すると、当たったー、とか言うのね。

そしてね、あの頃は・・・五十銭札だ。富士山とか靖国神社みたいな絵柄のお札を私のポケットに入れてくれるんですよ。

お寺の檀家たちの中でこの人は見えるんだってことで、それでしょうがないのでまあそういうことにして、もらったお金で〇(サクエビ?聞き取り不能)を食べたりしてたんですよ。
まあそんな感じで、絵は好きだけれど、特別絵描きになるって気持ちはなかった。


最初は占い師になりかねない感じで。


本当そうなの。そうそう、そういうこと。

S
その後の舜さんの絵の方法論を考えると、見えないものを無理やり見るっていうのは示唆的ですよね。


いまだと幻想力とかね、妄想力かもしれねえけどね。かってにつけてんだけど、自分でね。


ぜんぜんキリスト教には興味はないけれども東北学院中学に入られて、でも絵との出会いは入ってすぐではなくて中学校3年生ですか?


2年生です。
それはね、最初言ったとおり、物理部にも行ってたし美術部にも行ってたんですよ。
ところが美術部の絵の先生で粟野先生って、岡田三郎助という人のお弟子さんでいる時に関東大震災で仙台に帰ってきて。

最初栴檀学園高校に行ってたんだけれども、酔っ払って粟野先生が暴力事件か何かに巻き込まれて、それで新聞沙汰になるんですよ。
それはその学校をやめる結果になるんだけれど、やめて東北学院高校に拾ってもらって、絵の先生をやるわけですよ。

そんな感じのところにわたしが物理をるつもりで、さっき言ったとおり、そういうものの方が好きで、爆弾つくったりもしたんですよ、だから。爆弾ぐらいはつくれた。
爆発させたのはわたしの親友が二人いて、わたしはそのときは休んでいて爆発には関わっていないんだけども、爆弾作りはしたんですよ。いろんないたずらしていた。
たとえば、米軍の射撃場が台原にあって、台原の絵がここにあるけども、この辺のそばにね射撃場があって、そこで雷管を拾ってきたりしてね。
川内にも射撃場があってそこでも雷管拾ったりして、三連発銃とかね、つくったりしてね遊んでたわけ。外で打つと怒られるから、廊下でね。

S
廊下でも怒られるんじゃないですか?

I
でも結構廊下長かったから。

的は乾板、写真を現像するときにガラスのね乾板に薬品をぬって、それを的にして撃つとパチンと割れるわけですよ。

そういうことやって遊んでたらね、やがて、一緒に鉄砲作ってたり遊んでた友達に、俺は東北学院中学に行くから石川くんも行かないかと言われてね、なら、うーん、しょうがないな、と思ってキリスト教ではなかったのだけども行くわけですよ。

行くつもりはなかったけども、私もきわめて優柔不断で意志はしっかりしていないんだね。友達がそうするんなら私もそうしようかと。それで、中学二年生のときに粟野先生がわたしに100点くれたわけですよ。
それが自慢話だと思われると非常にこまるんだけど、それがまず間違えの元。
100点もらうと本気にして他の勉強しなくなったんですよ。
わたしは絵に向いているんだなと思ってね。
絵に向いてるか向いていないかわかんないんですよ、好きなだけでね。でも向いているんだと思ってしまってね。そうすると勉強しなくなるんだね。
絵を描いてると頭悪くなるそうですねって言われて、ああ、そうだと思いますよとわたしも言ったことがあるぐらいで、勉強はできなくなるんですね、夢中になって。
ずっとあとから勉強も必要だなって分かるんですけど、もう少し歳とってからね、そうだな、高校3年前あたりから少し勉強しはじめたかな。
まあいずれにしろ、粟野先生が100点くれたことがきっかけなんです。

S
それが画家になる今となれば大きなきっかけですね。

I
であると同時に、あまり言いたくない話でもあるんだけど。

S
あと舜さんいろんな人にたぶん刺激を受けていくと思うんですけど、そのあと舜さん東京に出られるわけですけど、それまで戦後すぐの仙台で実際に絵画を見られる機会ってあったんですか?今で言う美術館もなく。

どういったところから?そのころ興味があった絵っていうのは?

I
ちょうどその絵がね、教壇の上に飾ってあったんですよ。
よく考えてみればわたしが飾ったんだね。
カレンダーにゴッホの糸杉の絵があってね、カレンダーには別の絵もあったんだけど、カレンダーが出会いじゃないかな、絵との。

S
そうですね、印刷物からこういった絵があるんだっていう感じですよね、当時はおそらく。
舜さん自身はどういった絵が好きだったんですか?やっぱりゴッホとか?
風景画とか描かれていたんですよね?

I
一番最初はよくわかんなかったんですよ。うちが写真屋だったから写真を見てね、描いたりとかね。絵が好きだって言う感覚よりも、なんか夢中になる物が欲しかったというのが事実ですね。

S
最初絵を見るのが好きというのではなく、爆弾の話もそうですけど、何かを作ったりすることの延長で描くことが好きだったんですね。
そのあと高校に入っても絵画は続けていかれるんですよね。

I
そのへんはもうね、初恋に関わっているんだよね。
結局は美術に初恋をしてしまったんだよね。
女性を好きになるよりも美術が好きになってしまった。
美術部があったから、美術というものの考え方が、私の中にも、ああ美術っていうものは、そういうすばらしいことなんだ、と思ってね。絵が好きなだけではないんだ、好きな絵だけの世界ではないな、美術という世界があるんだな、すごい空間があるんだなっていう感じがね、わかってきたのでね。
それが中学2年の頃のことですかね、収縮するとね。
中学2年の時にすでにマチス展がありましてね。

S
それはどこで?

I
それは東京のね博物館です。

S
それは上京されて?

I
親戚の家に泊めてもらって見ました、そのときの博物館の展覧会。


それはやっぱりかなり大きな刺激になったんですか?

I
もちろん。そのころはもう絵描きになろうとしていた。
だから当然絵描きになったのがね、中学2年の時、突然100点もらったときから。
石川は絵ばっかり描いてるから何点やってもいいんだよな、なんて言われてね。
絵ばっかり描いていたんですよ、暇があれば。
ポケットの中にも4Bとか入れて。


とにかくスケッチして・・・

I
スケッチっていう名前のものかわかんないけど、しょっちゅう絵は描いてた。

S
そのあと高校に入られて、上京しようと思い立つわけですよね。
それはどうしてなんですか?なにかきっかけが?

I
それが一番話したくないことなんだよね。
大学に行かなきゃと思うことがもう俗っぽくなっているんですよね、私の頭が。それで美術大学に行かなきゃって。

S
画家になるためには、って思ったんですね。

I
そっからもう今考えっと間違ってたなって思ってるんだけども。
まず物理学から美術に進んだときもたいした理由じゃない。100点もらったことから本気にして。

どんどん成績が落ちても絵でカバーしてたから最初はわかんなかったのね。
絵が100点ていうのは、そういう意味ではね、例えば英語15点とか16点とか取った。
そのころ東北学院っていうのは不思議なところでね、アメリカから先生が来るんですよ。
そことのところにね、常駐で英語を教えている人たちもいたんだけど、二年にいっぺんぐらいに交代でね、若い宣教師みたいな人達が英語を教えに来るんですよ。
絵の好きな先生だとかはね、わたしのうちに遊びにくるようになってね、わたしも得意になって絵を見せていた時代があったんですよ。
このころだいたい描いていたのがそこにある台原の絵。

S
最初はこういった風景画を描いていたんですね。

I
アメリカの先生たちがよく遊びに来ては、汗流して英語でしゃべっていたのがね、俺がね、What do you like?とかねしゃべってね、でも「いぐべ」とかね「あべ」とかねわかるんだよね、特に一番よくショッキングに分かったのは、ゲルハードっていう若い宣教師でね、絵が好きで家に遊びに来てたのでね。
美術部の仲間達と景色を描きに行こうとか言ってね、それまでは無理してこっちも英語しゃべってたんだけどね、「いぐべ」とか「あべ」とかいうと立ち上がるんだよね。
この人英語も何でも分かるんだ、何もこっちが汗流して無理してしゃべることねんだな、と思って、日本語をしゃべるようになった。

S
前に舜さんにお話をうかがったんですけれど、舜さんが刺激となった話として、戦争で東京から戻ってきていた宮城輝夫先生なんかとお会いになるのもそのころですよね。

I
宮城輝夫さんの話だとね、家の姉がね、樺太の豊原って市があって、そこに嫁に行くんですよ。そこの工場をやってた人の家に。今のサハリンです。
そしてロシアが侵攻してきて姉が仙台に戻ってきて。
護衛の航空母艦はそのとき沈んだけど、うちの姉は普通の客船に乗ったので沈められないですんだので、なんとかまあ仙台に帰って来た。

S
さきほどおっしゃっていた、ちょっとお母さん代わりになってかわいがってくれていたお姉さんが。

I
わたしが疎開していた登米郡上沼村にわたしを迎えに来て仙台に連れて戻ってくれて。
その姉がね、喫茶店を始めるんですよ、一番町で。甘いものなんて何も手に入らない時代だったけどもね、米軍の、闇で手に入ったんだろうね、砂糖とか、コーヒーとか。
喫茶店を始めたらね、まず新聞記者がずいぶんきたし、建築家竹中工務店の人達、絵描きたちがね、ずいぶんきたんですよ。
絵描きたち、竹中工務店のサラリーマン、河北新報はじめ、朝日新聞、読売新聞の人とかみんな集まってきてたまり場になってたんだな。
新聞社がたまり場になるとなぜか絵描きも来る。
ほんと不思議な俗っぽい世界だなと私は思うんだよ、でも、俗っぽいか俗っぽくないかはその頃は分からなくて、いずれにせよ、後ですぐ分かるんだけれどもね。
やがてうちの姉は河北新報の編集部をやってたうちの義理の兄貴、今はドイセイチョウというんだけれども、昔はサトウセイチョウと言ってた頃ね、恋愛沙汰が起きて、樺太の人とは離婚するわけですよ。

彼はずっとシベリアに抑留されているうちにね、やがて離婚沙汰が起こって。

それで、そういうところに宮城輝夫さんとかね、その他いろんな絵描きたちが来ていたんですよ。

S
高校生の時に大人達の話を聞いていろいろな情報を仕入れたりしていたんですね。

I
もっと小さかったんだけどね。中学生。もっと小さかったかも。
小学校3年で仙台に戻ってきて、姉が喫茶店を開いたから。で、私もそこで・・・私が作ったどらやきだのあんまりね、人に食べさせて何かなんねえかな、と思うけどね。まあ、いずれにせよ、手伝いとかしたりして。
そんな感じでいるところに宮城輝夫さんだの、いろんな絵描きたちがね、中島哲郎さんという、宮城学院の絵の先生とかね。日展か何かに出していたんじゃないのかな。
そういう人たちがみんな来て、うちの喫茶店にも、宮城輝夫さんの絵は飾ってなかったけども、いろんな人の絵を飾って。
中島哲郎さんとか絵は上手でね、色の使い方だの、私が今観ても。
宮城輝夫さんはそんなに上手な方ではない、そこにいる中ではだよ。お兄さんは上手だったけどね。

S
宮城四郎さんですね。

石川舜の世界展(2010.9/7~9/12 SARP仙台アーティストランプレイス)より

上 京

I
わたしも目だけはね、非常に肥えてきたのね。
あの人はかなり描けるなとかね、だんだんそういう感じになる。
それで美術部のところからはじまる。

S
それで、ちょっと宮城輝夫さんも東京行くのに関係してるんですよね?舜さんが上京するのに。

I
あの頃ね、宮城輝夫さんをすごく尊敬していたのにね、昆野勝さんていう私と同じくらいの人がいて、絵も相当描けるんですよ。
ただ色感がないなとか、こっちもがっかりなんですよ、こどものくせに見るんだよ、見るっていうのは困ったもんでね。おばけも見るけども、そういうのも見る。
勝さん、絵はすごくませてるけれども、ちょっと色彩感覚がないんじゃないかなとか思ったりしながらね。今くしゃみしてるかもしれないし、分からないけれども。

現代美術の、仙台では一番進んでたかもしれないね。

S
昆野勝さんも戦後宮城さんのつくったエスプリ・ヌウボオに参加して、そのあと舜さんよりちょっと早く東京に行かれていたんですかね?

I
わたしのほうが先。

S
やはり宮城先生の紹介で、ヨシダ・ヨシエさんなどと知り合って、60年代東京画廊で個展をしていた?

I
それはね、宮城さんの紹介ではないと思う。
だって、針生一郎さんを宮城さんに紹介したのが昆野勝さんだから。

S
あ、そうなんですか。

I
だからね、昆野勝さんてね、すごくませていたんですよ、絵の描き方もね。

S
で、高校の時に東京に出ようと思う訳なんですよね。そういった出会いがあって。

I
そうなんですよ。東京に出ようと思ったんだね、確かに。
そのときにね、なんで芸術大学かわからんけどもね、絵を描く以上芸術大学をうけなくっちゃなんねえなと思ったのがね、わたしの血迷った・・・。
そこは難しいんだ。芸術大学の大学院教授も今そこにいます。高山(登)先生がいらっしゃるからさ。高山先生に聞かないと分からない部分もたくさんあるから。私は当時は絵を描くんならば、美術大学だなと思った。
本当は普通の大学に行けば良かったんですよ。

だって合わないんだもの、私と。それは入ってる時から他の先生達からも言われた。


そう言われたのは、東京に出て、画学校に通い始めたころですか?

I
はい。それで当然何が合わないかというと、私は好きだよ、って必ず言うんですよ、試験官が。
コンクールがあってね、国画会美術研究所というところには。
コンクールで、だいたいこのくらいだと芸大に入れるレベルだなとか決まってくるんですよ。
100人ぐらい国画会美術研究所からは合格していたからね、建築をやったり、デザインもあったり、とか、いろいろあるからね。

それとだぶっているのに阿佐ヶ谷研究所というところがあって、阿佐ヶ谷研究所でまず勉強して、国画に来るのはね、阿佐ヶ谷では芸大に入れないなっていう感じがあったらしくて、阿佐ヶ谷で習った人達がみんな国画に来るんですよ。

そして、それから一年か二年か三年後あたりに芸大に入るんですよ。
わたしはね、はりうじんろうさん、はりうしずお(針生鎮郎)さんに相談したときに、舜ちゃんならば国画会研究所の方がぴったりだな、っていうのでね。本当は阿佐ヶ谷の方が良かったんですよ、厳格だから。
国画は自由だからね、「いいと思うよ」、というところからもうすでにそれもまちがっている、わたしにとってはね。

S
針生鎮郎さんはちなみに仙台出身の画家で、舜さんの先輩にあたるっていうんですかね。

I
そうです。針生さんを紹介されたのが、私が中学二年生のとき。

S
粟野先生に会ってですね。

I
針生鎮郎さんが三年、年上でね、先輩。
それでふらっと職員室に来たときにね、俺が職員室の前を通ったら石川石川って言うから、はい、って言ったら、二人紹介するからって言われてね、こんなちっちゃい私とね、こんな大きい針生さんとね、廊下で紹介されるわけですよ。

これが石川舜だよってね、「あーそうですか」ってね。これが針生だよって言われて、「あーそうですか」、ってわたしも生意気にね。全然大人と子どもくらい違うんだからね、その頃。でも、それからすごく仲良しになってね、針生さんと。後で分かるけれどね。後でもっと壊れるんだけれど。

S
でも、長く仲が続いたんですね。

I
そうです。魚釣りしたりいろんなことして遊んで。市川に行く前からね、下宿屋も一緒に探したりしてね。

S
じゃあ国画会研究所に行ったのは針生さんの助言が大きかったのですね。

I
もちろん、もちろん。そこに行ったらいいってので、国画会研究所に入ったの。それがね、間違いだったのね。

自由だった、のびのびと描けるからね、決してうまくならないわけじゃない、私自身はね。

正確に書かなくちゃならないんだもの。

S
前に舜さんに伺った話で、その時、空き缶を描かされて、舜さん、川口軌外さんに上の円と下の円の関係を考えて描けって言われたと。

I

上の楕円とね下の円弧ね。


でも舜さんが興味があったのはもっと細かい傷やへこみの部分だったっていう話をこの前うかがいました。

I
興味というか、気に掛かる部分ね。


どうしてもそっちを描き込んでしまうっていう感じですかね。

I
そのへんの話をするとね、そのころね、ミヤハラさんていう人がね、下宿屋の上に住んでいたんですよ、私の上に。
絵を描いてるというので気にかかってね時々のぞきにくるんだよね。
石川くん、今どういう物描いてる?とかね。外で描いてる時でも見てくれたりして。
その人はね、プロの絵描きなのね。
要するに、何て言うんだろう、売り絵を描くっていうんではなくて挿絵とかね、挿絵は新聞社とか雑誌社とかに頼まれて描くくらいのプロなんですよ。
ミヤハラアキオさんていうね。
ミヤハラさんは私の絵を気になって、その時に、ついでに新宿の二丁目とか、行かないかって遊びに。


高校生なのに?

I
何も売春にかかわるわけでないから、ひやかすだけね。
そんな感じでね、連れて歩くと良いと思ったんじゃないですか、何となくね。私のためにも自分のためにも、連れていくのなら歳が全然違う方が。
その人の案内で新宿二丁目を見たりとかね。
そのミヤハラさんがね、ある時どっちが先なのかな?忠告受けたのは。
まず俺が風景描いているところを町歩きながら見てね、上手く描かない方がいいぞっていう忠告をしたんだったか、落ちてから川口軌外さんのね・・・川口軌外さんの話もしないといけないよね。川口さんはね、国画会に絵を時々見に来る先生の一人なんですよ。

S
そのころはパリから帰って来て大御所ですよね。

I
そう、ロートの研究所にいたのね。そこで抽象絵画を勉強して。

S
レジェとかと・・・

I
うん。そのころね、デッサンも見たけれど油絵もときどきそういう先生が来るとね、みんな持って行くんですよ。

で、わたしもそういう先生に見てもらうために油絵を持ってね、見てもらいに行って。

そうするとね、「まあまあだな」っていう話が、「まあまあだ、ってどういう意味ですか?」って私もうんと生意気だからね。そうしたら、「無難だっていうことだよ」って、「無難ってどういう意味ですか?」って、「まあまあだなって」、ね、どうっていうことないっていう風にしか聞こえないんだよね、わたしは。
すごいっていわれなければだめなんだよね、わたしは。
必死で本気になって描いてる人間にまあまあだね、って・・・。まあまあ素晴らしいから描いてる、なんて感じではなくてね。すごく本気で描いてたんだよ。
それが結果的には悪い結果になったんだけどね。

S
そんなことないでしょう。

I
それでも芸大落っこちて最初の受験でその頃中野に住んでたから、上野から中野行の切符がポケットの中で完全に粉になるまで、悔しくて指と切符とで完全に粉になったのを改札で見せたら、「気持ちはよくわかる」とかって改札口の駅員さんに言われてね、通んなさい、通んなさい、とかって。
とにかく、そんなに粉にしてしまうくらいは悔しいんだけどもね、私忘れられないんだから・・・それで、何だかもういろいろあるんですよ。
石川は方向見つけたからもう何も他の勉強しなくていいんだ、って言ったのが国語の先生でね、ダテ先生って先生がね、実は、絵を教える免許も持っている先生で。

S
中学の時ですよね。

I
すごく興味があるわけだよね、絵を描く少年って、彼からすれば。
自分が担任の教室には必ず自分の絵を飾ってたから、風景画ね。うわ、うまいもんだなー、なんて思ってよく見てました。
で、粟野先生にも生意気な口をたたいたしね。先生、どうして絵を描かないのって言って、時々は描くよ、って怒られたりしてたんだけど。
そんな感じでね、落っこちたときにすごく悔しくて、思いだしたのが川口軌外先生のね、まあまあだっていうのがとっかかりになるかなって思ってね。

そのとき宮城輝夫さんがね16、7才のころにね川口軌外さんにね習ったっていうのが噂で聞いてたっていうか、しょっちゅううちの店に来てたからね、それで話したら、じゃ紹介状書いてやっからっていうことでね、川口先生にね、宮城輝夫氏から紹介状がこれ持っていきなって言ってね。

そしたら、すごく川口さんもなつかしがって、「子供のころの少年だったななんてね、宮城輝夫くんはっ」て感じでね。

S
じゃあそのころ東京に行って、画家になるには芸大にしかないと思っていた道が閉ざされちゃったわけですよね。
でも、川口軌外さんに実際教わったのって、国画会出てからなんですか?

I

そうです。

S

あ、そうなんですか。

I

だから、国画会の時に・・・。

 

S

ちょっとは知ってたけど、ってことなんですね。

I
国外会のアルバイトに川口さんが来てたから。で、まあまあの話とか思い出して、川口さんならばなんて言うかなって。もう本当に、国画会に入って芸大に落っこちるってことはね、帰ってこいっていうことなんだよね、仙台に。向こうの兄弟もいるからね。
舜なんか何やってんだかって感じなんだよね。

その頃、これもまた言いたくない話だ、俺の兄貴がね、失恋事件があって、そのために酒飲んだりして、飲み屋に通っていたところにね、うちが代替え地としてもらった土地が三越の南側にあってね。

S
石川写真館が空襲で焼けてその代わりにもらった土地。

I
その代わりというか、一番町にあった土地の代替え地として。道路を取るとか市が買ったりとかね。南側の方が代替え地でもらった土地があったんですよ。
そこにね、バーをたてた、うちがたてた。
その商売をやってたバーでね、うちの兄貴はただで飲めるんじゃないかと思って飲みにいくんだよね、失恋して酔っ払いたいんだから。
自殺未遂みたいなのを何回もやってるからね、4番目の兄貴だけどね。
1番上は本当に死んでしまうけど、それこそ最初はどっかの温泉で自殺未遂やって、親戚中みんな集まって励ますっていう、そういう写真はうちに残ってた。

S

写真があるんですね・・・。

 

I

そうそう。親戚たちがみんな集まった時の。

それで、うちの一番上の兄貴は八木山橋の上から飛び降りて死んでしまって。そして、おふくろは宗教にどっぷり入っていくわけだけどね。で、私は、さっき見えるそうだとかなんとかいった話の中に巻きこまれていった部分があるんだけど、絵と関係なくね。

ただ、ずいぶん勉強したんですよ、ついでに仏教徒かキリスト教とか、キリスト教を本気になって勉強したのは学院に入って中学1年になってからだけど、その前の小学校3、4、5、6年、その頃は仏教部に入ったの。
それで絵が好きになったのが小学校2年から3年生にかけて。
成績が100番落ちるっていうのはそうとう良かったってことなんだよ、実は。落ちるところが100番もあったってことは。
それで、本当にバカになったんだろうな。

S
絵にのめりこんで、ですか?

I
そうそうそう。
後で鳥海(青児)先生にも言われるけど、のめりこみすぎるマニアックなところがあるから気をつけろ、とか言われてね。

S
川口先生に教わっていて東京にいられることになるわけですよね。
それで、美大に進学する以外で絵を続けて行くきっかけを見つけるわけですよね。
たぶん舜さんの人生ですごく大きな意味をもつ、鳥海青児先生との出会いのところを聞いてみたいなと思うんですが。
その鳥海青児先生に出会ったのが美大落ちてからその頃の話ですよね。

I
そう、まずね、鳥海先生の個展がね、求龍堂画廊っていうところであったんですよ、銀座のね。
それをね、小作(おざく)が、芸大に入っていたもので・・・。

S
オザキさんていうのは・・・

I
小作青史(おざくせいじ)。同年代。おれより本当は一年上。
小作くんがね、石川くん、鳥海青児展があるけど、見に行かないかってね。
どっちもね真っ黒い絵を描くので、小作もそうだったんだ、おれも真っ黒い絵になっていた時代だ。

S
舜さん今日持ってこられた絵で一番古いのはこれですか?

I
それは高校一年生のころ。


だんだん、こちら、「にんにくとバケツ」という作品。これが、芸大落ちての・・・?

I
落っこちてまもなくのはこっち。
それも同じ時代の絵だけどね。


だんだん色的には、暗い色が基調になっていくわけですよね、色を使って描く時は。

I
色よりも、こつこつ描くようになったのはね、この絵とかこの絵とかで(美大受験後の作品を指さして)。みんなこつこつ描いたの。
こっち(高校生の頃の作品)はね、ぐいぐい描いたの。こっちは一週間はかけたから、一枚に。こっち(高校の頃の作品)は一日で描く。


鳥海先生もいろいろな絵を描きますけど、色合い的にはあまり明るいトーンの絵というのは描かない感じですよね。モチーフ的にも。

I
黄色が嫌いだ、って言ったくらいね。
まあ、それは私に言ったんじゃなくて、美術手帳かなんかにしゃべった話だけどね。
黄色はあまり使わないんだけども・・・俺一回行った時には黄色い絵置いてあったんですよ。黄色はね、嫌いになるの。それは不協和音の話の時に出てくるんだけど。

S
その個展を見に行って鳥海青児先生の絵にかなり感激するわけですか?

I
うん。やっぱり鳥海先生の絵ってね、きっと色彩的に似てたのかもしれない、私にとってはね。


そのころの気持ちに合う絵だったんですかね?

I
小作もそれを知ってて、石川行かないかと言ったんだと思います。
俺だよな、紹介したのは、って、一生懸命いつだかも言ってたから。鳥海青児を彼は全然知らないんだよ、あの時。そういう意味ではなくて、展覧会があるよ、一緒に行こうよ、ということで誘ったのは俺だった、って。いつも誰にでも言ってるよ、って言ったんだけどもね。

まあ、小作も俺も黒っぽい絵を描いていたのは確か。
小作が芸術大学に入った理由も伊藤廉(いとうれん)先生という人がいてね、やっぱり国画の会員で。
国画会美術研究所にアルバイトに来ていた偉い先生で、本も一冊セザンヌ論っていう分厚い本が出ていたからね。すごいなあと思っていた人で。
その廉先生がやったコンクールでね、わたしはラージBで十分だったのに、小作はラージAとったんだよね。

小作が取ったラージAっていうのは、ラージBよりはるかにいいわけだ、その間にスモールAってのもあるから。

S

ランク分けされる訳ですね。

 

I

そうです。でね、小作くんはラージAを取ったからね、これでいけばいいなって思ったんだって。

私は二人で話していたから小作も知ってると思うけど、これで足りないなって思ったわけだよね。もっと勉強しなくちゃだめなんだっていうふうに思ったわけ。
そこから完全に考え方が分かれるんだね。
わたしはどう書けばいいんだか全然分かんないから一生懸命描いてラージBで。同じ黒っぽい絵でも、一生懸命描いてラージA取ってる小作とね、呼吸の仕方がわるいだの、全然関係ないとこまで来てね。
オカルトか何かみたいに変わっていくんです。それで、そこにあるようなものを描くわけですよ。

S
そのころこういった絵を描く。鉛筆だけですよね。

I
鉛筆で紙がぼろぼろになるまで描いてね。周りまでボロボロになったりしながら描いてた時代があって。いいものはがひとつも残ってなくて悪いのが今一点残ってるだけだけどもね。
このころの絵をもちろん鳥海先生とか川口先生のとこに持ってってね、川口さんだってきっと誰にでも「まあまあ」って言うんだからこれもすごいって言ってくれるかな、と思ったらね、ぱっぱっぱっぱっと見てね、こんな描き方じゃだめだって言われてね。
それでも弟子にしてあげるからって言われたんだよ。

S
川口先生はそんなにほめなかったんですよね。

I
ほめない。
女性だったらまずお嫁さんになれとかね。

S
絵をやめて。

I
ちゃんと満足に見てくれないで、なんぼ上手に描いてもね、本当お嫁さんの方がいいよ、って言ってたけどね。
厳しいなって思って、こっちが見てもかなり描ける女性なのになあ、とか思う人がいっぱいいたからねえ。で、芸大に入った人たちもかなりいるはずだしね。それでも、お嫁さんになりなさい、って。

その人がね、私の絵をまあまあと言ってたから、本気になって描いたならばきっとすごいって言ってくれるかなって思ったらね、全然見ないんだよね、本当、ぱっぱっぱっぱっぱっと見てね、これじゃ墨汁ぬっても同じじゃないかって言われたり。

「まずこういうもの(テーブルの紙コップを手にして)を描くなら、上の楕円と円弧みたいなのをよく見て描きなさい」と言われてね、で、私も、はい、なんて言って描いてたけど。

S
まずは本当に教科書的な基本の基本をっていうことですよね。

I
そう。そんな感じで描いてたら、さっき言ったミヤハラさんっていう新聞とか雑誌の挿絵を描いていた人がのぞきに来たらね、石川くん何やってんのって言われたんだよね。それも訳があるのは後で分かるんだけども。
ぼくは、鹿児島出身なんだけど、鹿児島から出てきたときに東京に出てプロになんなさいと言われて出てきたんだよ、って東京の作家から。
彼の投稿してきた物を見てなんとかさんていう絵描きさんが言ったらしく。
その人に紹介されて、本の挿絵とかをやってたんだって。
最初は良くてそのまま挿絵を続けていたそうです。そのうちにぴたっと仕事がこなくなったんだって。
いくら頑張って出しても仕事がこない。
とうとう、内輪で話を聞いたら、「ミヤハラくん、来たころよりも絵がうまくなったからだめなんだよ」と言われたんだって。
魅力がなくなったってね、上手くなっただけで。
わたしのために、彼が言ってくれたんだけど、「石川くん、上手い絵描きはいくらでもいるよ。自分の本気で描いていればいいんだよ、わたしはそう思った」と。

その人はやがて不動産屋のお嬢さんと結婚して美術界というか、そういう世界から消えていったんだけどね。それでどうなったか、私も忙しくなったからお会いできなくなったけども。

で、まあ、ミヤハラさんが「石川くんはもっとちゃんと分かってくれる人を先生にした方が良いよ」って言ってね。
それで、「ああ、そうかあ」って、たまたまそういう話をしているところに、親友の小作青史くんが連れていってくれた鳥海先生の個展で「水無き川」っていう絵があってね。
その他いろんな絵があるけれども、その頃、私、「水無き川」の絵がすごく・・・


風景画ですよね。
その鳥海先生の個展を見に行ったのがすごい転機になったんですよね。
じゃあ、ちょっと一回休憩を入れますか。


休 憩 中

I

で、鳥海先生のところにその真っ黒になったデッサンを持っていったらね、本当に今度は川口軌外さんとはうって変わって、一点ずつ、面白いなあ、面白いなあ、って見てるわけね。

それで、全然見てくれ方が違うんだあ、と思ってね、鳥海先生のところに自然に足が向くようになったんだね。で、研究所やってるわけでも何でもないし、お弟子さんだって集めてるわけでも何でもなくてね、ただ行ってお茶飲んでね、ご馳走になって。

S

絵を持っていかれて。

I

絵はいいかげんなものは持っていけないな、と思ってね、私としては一番いい絵を何か描かなきゃダメだな、と思って描くわけだ、とにかく必死にね。鳥海先生に見てもらおうと思って。

それは芸術大学に行くよりもずっと大事なことでね。

その頃鳥海先生は、石川くん、とは言わなかったけど、「仙台くん、仙台くんは芸術大学に行きたいんだったら、林(武)くんを紹介してあげようか?」って言われてね、いや、けっこうです、って言ったくらいにしてね。林さんの絵よりも鳥海先生の絵の方がすごいと思っているわけでね。

まあ、林さんも大変な苦労して芸術大学の先生になるんだけれども、米びつに一つも米粒がないだのという噂が伝わってきたり、同じ中野に住んでたからね。

とにかく芸術大学なんていうのは、その頃に、どうでもいい、というふうになってしまうのね。鳥海先生が一枚一枚、ためつすがめつ眺めてくれるのでね、私はやっぱりこの人だ、って。的確な表現とかなんとかじゃないんだよ、何て言ったらいいかな、教え方だって。一生懸命なの。面白いなあ、面白いなあ、ってねえ。

国画会研究所の中にも松田正平さんとかね、「石川くんの絵はとても生き生きしてるからね、だまされるんだよな」って言ってたのね。「だまされて、これでいいんじゃねえかな、って思うけれども、待てよ、と思って、一回り、一呼吸して見るとね、やっぱり石川くんの絵は狂ってる、ってね。その辺の価値観が芸大の予備校っていうのとね・・・予備校の先生たちって、やっぱりそういうふうに考えたのかなあ。〇〇さんも、そういうふうに言ってたからね。

S

正確に描く、ってことですね。

I

そう。そして、私は気に入ってるけど、石川くんの絵は不正確だからダメだ、ってな感じでね。俺は全然訳分からなかったんだけども、それでも、こっちも正確に描かなくちゃ、とは思って、長いこと結局、何年間か黙々と描いてるんだよね。

で、後になって、鳥海先生のところでたとえば川口軌外先生の愚痴を俺がこぼしたりとかね。愚痴をこぼすのは本当に情けないから言わないようにしろ、って言うんだけど、鳥海先生にも言ったらね、それは老婆心っていうものだよ、って変に言われたけどね。

(紙コップの口と底を指さしながら)物の楕円と円弧をよく見ろ、とかね、本当に一生懸命見るけども、さっぱり面白くないからね。やっぱり鳥海先生のように絵は若い人でないとダメだと思ってね。ブツブツさっぱり分からない、という話をしたら、そいつは老婆心ってものだから、って言われたけどね。ついでに言うと、仙台くんはね、マニアックだからな、ってね。マニアックも辞書調べないとなかなか分からない年ごろだったからね。やっぱり熱中しすぎるのかね。

結局まわりが見えなくなるのかな?どういうことなんだろう。完璧で〇〇実は何で悪いのかさえ、今でも分かんないんだから。

そのころね、鳥海先生は俗っぽくなるなという話をね、まず俺の頭にたたきこんだね。鳥海先生の薫陶を受けた、という意味で言うならね。「俗っぽくなっちゃダメだよ、例えば、宮本三郎」とかって言うんだから。

S

名前を挙げて。

I

宮本三郎のようになっちゃダメだよ、とかね。誰のこと言ってるのかなあ、って思ってね、最初ね。

後ね、朝倉摂さんと一緒にアトリエか何かでね裸婦を描く会を鳥海先生と、モリヨウスケだったかな・・・後、林武と。
それで林武なんかね、いつまでも描いてるんだってね、終わるまで。要するに、裸婦がポーズ変えて、もう違うポーズに入ってるのに、最初の裸婦だけ描いてる。
で、鳥海先生はね、適当にね、またうまいんだよね、俺から見ると、するするするっと。
「こういう風に自然に正確になるだろう」って言ってるのね。

あんまり無理にデフォルメする朝倉摂はだめだとかね、ズバズバ言うんだね。

そこでおれ覚えたのはね、人の悪口を平気で正直に言うってことは非常に大事なことだと思ったくらい。悪影響だけは最悪っていう。


休 憩 後

S
鳥海青児先生に会って、ある意味国画会研究所時代の正確に物を写しとって描くという呪縛からは解き放たれたわけですね。鳥海先生の魅力的な絵に会った。
鳥海青児さんの絵も独特な、絵の具を盛るような、その時代によって違いますけれども、盛って、ダイナミックというか細かく描くような絵ではないですよね。

I
のみで削ったりとかね。


それが鳥海先生の絵を展覧会で見て、この人なら俺の絵を分かってくれると思ったっていうのは、なんか通じるものがあったんですか?その絵を見て。
今まで見ていた絵とは違ったんですね?

I
うん、違ったね。すごく黒ずんでたところとかね。黒ずんでる感じがおれの絵でもあったからね。


正確に描くっていう感じではないんですかね、鳥海先生は。

I
でもね、よく言っていたよ。正確だろうこれはってね、よく言われたよ。自然に正確だろって。
で、他の人みたいに現代的にデフォルメした、例えば朝倉摂さんとかをこんなものじゃだめだよって言ってたしね。
もっとだめなのは一番俗っぽい宮本三郎だとかね。宮本三郎は一緒に描いてり何だりしてるわけでもなかったけどね。わざわざ名前出してね。宮本三郎のように俗っぽくなったら、もうダメだぞ、ってね。
なぜかっていうとね、おれがかわいいと思った女の子をね、写生したんじゃなくて適当に描いたのがスケッチブックに入っていて、それをついでに見せてしまったんだよな。
パッと見てね、こんな俗っぽい絵なんで描くんだよって怒られてね。俺も失敗したなと思って、見せるつもりでもなかったんだけど、すごく嫌いなんだよね、俗っぽいの。
そのころ鳥海先生は趣味で描いてると思われてたみたいだよ、知らない人たちからは。


絵を売ったりしないからですね。
展覧会で鳥海青児さんの絵を見て、家まで押しかけてしまうわけですよね、紹介もなく。

I
そうです。そうそう。ほんの短い期間だからね、求龍堂画廊を見たのはね。俺があんまりにも失望してるので、鳥海青児さんの個展やってっから見にいかないか、と小作が言ったのと、俺が芸大落っこって挫折してガッカリしてたのと、その間はほとんど日にちで数えた方がいいんじゃないか、時間で数えた方がいいんじゃないかっていう時代だからね。


家に押しかけて、絵を持っていったわけですか?自分の。

I
そうだね。最初は奥様に置いて行きなさいって言われて、夕方に鳥海に見せるから後で明日電話しなさいと、4時ごろにね。
その日は帰って、次の日の夕方4時に電話したら、鳥海が喜んでいるからすぐいらっしゃいって言われてね。行ったのが次の日。
で、鳥海先生が一生懸命俺の絵を今度は、・・・〇〇いんだよな、やっぱり川口さんも〇〇ためつつながめつ見てくれる人と、ぴゅっぴゅっぴゅっと見る人とでは俺には全然違うんだ、捉え方はね。
それが一番すごいなと思ったこと、鳥海先生のね。
本当にこの人で良かったという感じでね。
もうその時点で芸術大学っていうのは頭から消えてしまった。


鳥海さんも独特の変わった人というか、ちょっとストイックな人ですよね。自分の絵は売らない。「水無き川」っていう題名もありましたけど、モチーフにするものもどこかストイックというか悲しい雰囲気の漂う絵かな、と。

I
そこまでは深く分からないけども、そういうふうにこう考えて、鳥海さんがすごい〇〇だったって分からないままね、何か一生懸命見てくれたりする人に恵まれないからね、わたしは。

S
そうですか?

I
そうなの。例えばね・・・。

石川舜の世界展(2010.9/7~9/12 SARP仙台アーティストランプレイス)より

作品を壊す


じゃあ、この、その頃描いた絵、真ん中に穴が空いていますよね、それはどうして?

I
これはずっと後になるけど、芸大とか何も考えなくなって、もう絵だけ専門に描きだした頃の絵

もう亡くなってしまったけど、絵が大好きな俺のいとこがいて、しょっちゅううちに遊びに来てた人でね、そこも写真屋さんなんだね。俺のおやじの弟の二番目の息子さんにね、イシカワジロウってのがいて、しょっちゅう見に来るわけだけど絵が好きだから。

おれは悔しいことがあると、空を見てうっぷんばらししていた時代があったのね。あー、世の中ってなさけないなって思うんだか、悲しいなって思うんだかどういうわけで空を見るんだか分かんないんだけど、「また空を見るの?」ってむこうも俺の一挙一動きっと見てるんだろうね、絵が好きだからね。いつも何だか、昔の絵ばっかし舜ちゃんは気にしてるんだねって言うからね、それほどでもないよって言って、持ってたはさみをここにブスッと刺してね、いつものとおり壊した絵が随分ある。
この絵の片割れの「にんにくとバケツ」っていう河北展に入選した絵があるんだけど、普通のバケツの脇にニンニクをふたつ転がしてね。こっちは落選した方の。そのころ俺、随分そっちの絵はみんな壊したんだけど。


昔の絵を舜さんは壊されるんですよね。

I
何とかいう絵描きは、俺の絵を見て、切り口がすばらしいとかね、すごい切り方だとかね、全然見方がちがうんだよ、俺の悲しい思いとね。

これはそのときに俺をひじった(※宮城県の方言。「からかった」の意)いとこがね、やめろーって言ってね、やめたのね、おれも。

本当はやめたいんだから。それを理由に。 

S

ちょっと茶化されて、やっちゃった。

I

もちろん。

腹立つから壊すって言うんだけどね。
前に壊した時には、その絵から脱却しようと思って壊しているだけで。
河北展などに関わっちゃだめだなと思って河北展に入選した絵を血祭りにあげる。そんなことじゃないはずだ、と思ってね。

だから、やがてアンデパンダン展にまで行くのは時間かかるんですよ。


そうですね。じゃあ、ちょっと早めに進めますか。
その後東京に残る決心されて、芸大には行かなくても。

その後バイトを始めてですよね?

I
そう。食堂でね。

S
ちゃんと働き始めるのは初めてですよね、たぶん。

I
お腹すいて、お腹すいてね、これは食堂で働くよりほかねーなーって思って。デザイナーになろうって絶対に考えないところが俺のね・・・。もちろんデザイナーになろうとした絵ってのもあるけど、結果的には誰にも認められなかったけど、ちょっとある。アトリエに。

でも、だめなんだな、お金がきらいなのかな?俺、お金とるのが。ありがとうございますって言うのがいやなのかな?別な意味でありがとうっていうことだと、言うんだけどね。


で、そうやって働いていたのに仙台に帰ってこようと思われたのは?

I
出前をする時になって最初は自転車に乗りながら出前はとてもできないんです。

自転車に乗れることは乗れるんだけど、片足でも片手でも乗ったりして遊んでたんだけど、実際商売になって出前ってこれくらい重ねるからね(両手を上下に大きく広げて)。

S

蕎麦屋さんみたいにですよね。

I

出前箱の中に何段階も板が入っててその上に重ねて持って歩くんだけどね、怖くて自転車なんか乗れないから。
でも、自転車持ってけよ、って言われるんだよね、そこでね。
もちろんわたしはキッチンフライパンっていうところで広告を見て行ったら採用になった。そん時に、私はフランスで出前する気でいるもんだからって言ったら、フランスは、出前なんてものはないんだよ、と言われてね。


フランスに支店があって、フランスに留学するつもりだったんですね。

I
それしか方法がねえな、って思ってたからね。
鳥海先生の弟子になろうとは思っていたんだけれども、ちょうどお袋がね東京に来たときにね、鳥海先生のところにちょっと行くからって狸穴のソ連大使館のところにベンチがあるからそこにお袋を座らせてね、それでわたしは鳥海先生のところに行って、絵を見てもらって。
そうしたら、「今日は仙台くん、飯食べていかないか」って言われて、「はい」なんて、「でも今日はおふくろをソ連大使館のところのベンチに座らせておいたもんだから」って言ったら、「じゃあ、すぐ戻って連れてきなさい」って言われてね、走っていけば何とか行ける距離なんですよ。坂道だけど、わたしもわりかし若かったから走れたんだね、きっと。
連れてきたら、「一緒に食事しようよ」って。
まあ、鳥海先生ってあまり食べないから実際、パン一切れ食べないんじゃないかな、あの人もしかすると。おれはお腹すいってっからね、いただいたものは食べるんだけど。
そしたら「仙台くん弟子にしてもいいよ」って、お袋の前で言ったのね。
わたしはすごくありがたかったんだけども、どういうふうになるかは知っているんだよね、弟子っていうのはね。

一生懸命働かなくちゃないぞと。

S
身の回りのお世話したりですよね。

I
そういう気が利いた人間じゃないからね、だいたい分かってんだ、わたしが使いものにならない人間だってのは、これまでの経験でいろいろね。

それで、ありがとうございますって言って、これで失礼しますって言って帰ったきりになるんだね。

そのままキッチンフライパンで働いてるんだけども、やがてねもう仙台に帰んなくちゃだめだなっていうかね、もう絵を描きたくてうずうずしてるわけだ。

鳥海先生のところに絵を習いに行くのが続いてけば、絵を描くんだけども、もう習いに行くところも何もないわけだから、もはや。

食事をするために、一旦キッチンフライパンにね、自立をしなければならない、と思うから行ったんだから。どうしても親のすねかじってるわけにはいかねえと思ってね。まあ、飯を食うためなんだけれども。でもまあ、絵の世界で何かしようとは絶対思わなかった。何度も人に言ってることだけれどもデザイナーになろうとかね、全然・・・嫌なんだよね。

で、結局、その時は鳥海先生に遊びにいらっしゃいって言いわれた時に、もうね。


バイトしていて、またそんな別れ方したのに、またばったり会っちゃったんですよね。

I
そうです。それで鳥海夫妻がね、鳥海夫妻って今大事にここにある。(テーブルの上の写真を手にとって)この時代なんだけどもね。それで鳥海青児さんにね、遊びにいらっしゃいって言われただけでね、本当に胸がいっぱいになってね、仙台に帰ろうって思った。それで絵を描こう、と思った。


それはやっぱり仕事しながらだと絵との両立は出来ないと思ったんですかね。

I
と思った。でも、最初はしようと思ってたんだよ。
キッチンフライパンで働きながら、その辺の景色を見て鉛筆でシュッシュッシュッとして、この作品。実は、ほとんど造形的にはできてないけど。
鳥海先生のところでね、石川に飯食わしてやっかな、と思ったかどうかはわからないんだけども、鳥海先生と会ったのはキッチンフライパンに勤めている時だね。


で、鳥海先生にばったり出会って、やっぱりもう・・・。

I
仙台に帰った方がいいと思った。
こんなところでね、出前上手になったんだけど、俺はね。結局出前も慣れたしね。
それまでにうしろから自動車にぶつけられて出前の中身こわしたり。

それまでにうしろから自動車にぶつけられて出前の中身こわしたり。

アメリカの人だったかな、アイムソーリーとかって、千円もらってみんなで分けてね。こっちも出前箱ごちゃごちゃにしたから申し訳ないからね、お金もらったよーとかって言って。

S

交通事故にあって?

I

そうそうそう。
それでね、夢中でいたもんだから。で、仙台に帰ってくるんですよ、とにかくもう。

これから稼ぎ時なのになーなんて言われたりしながらね。


60年代ですよね?

I
50年代終わりだよ。何だか忘れたけれども。60年代っていうのは安保闘争のあった時だよね。すると仙台で〇〇やったりね。


で、奥さんに会われたのも仙台に帰ってきてからですよね。

I

奥さんって・・・?

S

舜さんの。

I
俺の?

S
はい。もちろん。

I
いろんな女性と会ってるから・・・


そうですか。時間があればそこらへんも聞けるんですけど。
そのころはもう奥さんにお弁当作ってもらってこういった風景を描きにいってたんですよね。
これもまた風景画といっていいのか、すごい描き込みで。

アンデパンダン展の前夜祭のイベントの方でもいくつか飾っていたんですけれど、これは飾らなかった絵を今日持ってきてみました。すごい描き込みですよね。
本当に筆圧強く描きこんでいくっていう感じの風景画ですよね。

I
さっきね、高山(登)さんがね、ゴッホに似てるな、ってね。
おれもね、ゴッホに似てるなって思って。それでね、風景デッサンはやめたの、これを最後にね。
またゴッホに戻ってきたっていう気持ちがね、ゴッホにのめりこんでいくと、おれは自殺しなくちゃねえんじゃないか、っていうね。宿命を持ってるんだ、何だか知らないけれど。兄貴が死んだせいもあるんだけれど、何だかね・・・どうやってさっきのキャンバスを八木山橋の下に置いて、そこに飛び込んで血みどろになって死ぬのが一番俺にふさわしいのかなとか、いろんな妄想がわいてくるんだよね。


じゃあ、これ以上ゴッホに近づいちゃいけないって、これ以上風景画描いているとゴッホに近づいてしまうっていう感じですか。

I
私が近づかなかったのはゴッホもあるけどもね、糸井さんもね、俺はめったに近づかない一人だった。


糸井貫二(いといかんじ)さんですね。

I
糸井さんはね、よく知ってた、おれのそういう性分をね。よく知ってると思う。あ、今、糸井さんとうんと親しい金田一(安民)さんがいるんだけど(客席を指して)、その他に何人もいるんだけど。


鈴木征一さんとか。

I
鈴木征一くんは親しくはなかったかもしれない、糸井さんとはね。
ただ、鈴木さんの親友に糸井さんとすごく近しい人がいたから。


上條順次郎さんとか、鈴木光一さんとかですかね。
東北大の当時の美術部のメンバーですね。

I

そう。で、もっと別にね、仙台新港で死んでしまった、さいとうよしあきくんがね、ずいぶん糸井さんのところに出入りしてたんだけどね。

で、五十嵐次郎くん・・・さっきちょこっと顔出したんだよ、ここに。忙しいからまた、って。わざわざ来てくれたんだ。
五十嵐次郎くんとかね、さいとうよしあきくんとかね。
わたしのね、けっこう糸井さんが作品見に来てくれて、そして裸になってくれて。本当に隅のあたりでぱっと裸で立ってたり。

S

個展の会場で。

I

小西画廊とかね、一番印象的なのは。

あと、本当に印象的なのは西公園アートフェスティバルのだね。

石川舜の世界展(2010.9/7~9/12 SARP仙台アーティストランプレイス)より

仙台アンデパンダン展、西公園アートフェスティバル


この後、仙台アンデパンダン展っていうのがあって、それに石川舜さんも作品を出して。

I
わけ分かんないままね。


わけ分かんない・・・まあ、そうですよね。そのころそれを組織していたのはちょっと年上の世代なんですよね。

I

そうなんです。

S

これがその美術ジャーナル。上に載ってるのがちょうど糸井さんの作品ですね。で、こっちに石川さんの作品。

I
この絵の大きいやつはケント紙全判にHBの鉛筆で描いたんだけど、これは普通の画用紙に4Bの鉛筆で描いたからね。そういう絵とはちょっと違うんだけど、当時自然に描いた絵でね。


自然に描いた。
風景画からこういった感じの絵に移行したっていうのは結構自然になんですかね?

I
そうですね。だから、おんなじなの、わたしにとっては何でも。風景だろうが抽象だろうが、同じ。


傍目から見ると、舜さんはすごく画風が変わってきてるなあ、というふうに見えますけれど、本人としては自然なんですね。

I
うん。ごく自然でね。
描かせてくれれば、頭でも何でも描くんだよ、わたしは。もう、ただ描かせてもらえれば、ありがたいって感じでね。

一番こわいのは、そこで邪魔されることなんだけどね。女房が一番邪魔される人間だな、って分かったのは・・・。

S

そんな・・・。

I

どうしようもねえんだけど。

夢中で描くことができんのが絵かなって、最終的に。

私は絵に入ったのは、その点、夢中になって入っていっても誰も文句言わないし、誰にも迷惑がかからないしってことでね。


でもアンデパンダン展に出して、やっぱりちょっと年上の世代と考え方が違うぞっていうのが分かって、その後、舜さん、絵じゃなくてパフォーマンスとかをやられた。

一番よく名前出てくるのが、西公園アートフェスティバルっていう舜さん達が組織したイベントですよね。

I
そうですね。西公園アートフェスティバルには、世界美術全集を全部素材にして作った紙くずかごなんだね。


舜さんが出したのは、絵から離れてインスタレーションみたいなものを作るわけですよね。

I
紙くずかごを作る。5体作ったね。人間の頭部にゴミを入れてください、って感じでね。


舜さんの頭を模した張りぼて。

I
全身像じゃないけどね、頭の部分とか、ちょっと首の部分を作って、大体このくらいの(両腕を広げて)を作って。


それはどうして世界美術全集使ったんですか?

I
それは、世界美術全集というものがあるからすべてが悪いんだよなってなことでねあったわけだ。
それはあんまり得意になって言えないけどね、もう一回買いそろえるわけだから私は後で、もったいないことしたなあ、と思って。
本当にね、意志が薄弱といえば薄弱なんだ。
そのころもっとすごければ・・・もっとすごい作家なんて日本にいっぱいいるからね。
そういう意味で言うならわたしはね、世界美術全集があるから、わたしは芸術大学だとか考えてみたりね、いろんなことを考えるんだよなってな感じでね、まあそれを自分の中から払拭するために紙くずかごを作るわけ。
その材料に七夕かざりの竹かごで、このくらいの大きいのに吹き流しをよく作ったもんだ、いくつか・・・。


舜さんの実家のお店にあったんですね。

I
それにね、世界美術全集の特に気に入っているのから切り取って貼り付けて。
そん時にそのまんま使えばおれもたいした絵描きなんだけど、恥ずかしいもんだから、全部金で埋めるんだよね。


金色のスプレーで塗っちゃったんですね。

I
そのままやるような才たけたところが私にはなかったんだよね。ちょっと恥ずかしいという気持ちがあって。でもとにかく、作品はそうやって作った。
それをならべて、西公園アートフェスティバルが始まるんだけど、次の日ね大雨降るんですよ。

大雨になってね、ぐじゃぐじゃぐじゃになってしまうわけね。

S

紙ですもんね。

I

そのままそれをゴミ清掃車みたいな人たちがね、西公園にやってきて遊んでたりしたもんだから、その車にね、ぐじゃぐじゃになったものをみな載せて、で、どうぞ持っていってください、っていうふうにしてしまった。
それで次の日、何もなくなるわけだ、私の作品はね。
作品がなくなったところにね、発案したのが豊島重之っていう、またうちにしょっちゅう遊びに来ていた・・・。


今、青森で活躍されている。

I
医者のたまごがいてね。
ちょっとその辺でパフォーマンスか何か・・・パフォーマンスなんて言葉はなかったけど、やりますからって言ってね、ちょっと出かけて一番町の方まで歩いて行ってきました、とかってね。何かいろんなことやっていた。
人を縄で縛るパフォーマンスとかやったりしてたのね。


西公園アートフェスティバルでは確か、ひたすら穴を掘る、というのを豊島さんはやっていたんですよね。

I
そう。それもそうなの。豊島が穴を掘るんでなくてね、何か俺の葬式をしようということになったわけなの。作品がなくなったから。で、俺の葬式を皆でね、重之くんだけでないんだけども、長谷部昭義くんとか鈴木征一くんとかが発案をして、おそらくそういう才がきくのは豊島くんだろうな、っていう感じが俺にあるんだけどね。そんな感じで豊島重之の名前を出したんだけど。まあ、いずれにしても八戸から出てきてしょっちゅう俺の家に泊まっていたんだね。


糸井貫二さんも豊島さんとは仲良くて、西公園アートフェスティバルでパフォーマンスされたんですよね。

I
仲がいいかかどうかはね、嘘だと思う。

大体、豊島重之とね、合わないんじゃないかな、おそらく。 

S

それは、性格が?そうですか。

I

(観客席からの笑い声を聞いて)あ、笑ってるね。金田一さんなんかね、きっとある程度、もう少し事情を知ってるかもしれない。


舜さんもさっきちょっと出た話で、ダダカンさんにはあまり近づかないようにしてたって。

I
それは、怖いもん。

S

怖い?

I

俺は怖いと思ったよ、ダダカンさんを。で、こないだも、そこにいる金田一くんにね、「まだお元気だから行ってみませんか」って誘われたんだけどね。(観客席に向かって)「嫌だ」って言ったよな?要するに、嫌いだからじゃなくてな。


さっきのゴッホが怖いっていうのと同じ感覚ですね。

I
うん。俺はね、その代わり、文通はしていた。
したらね、女日照りで困ったもんだっていう川柳を書いてね、俺のところに送って寄こしたりなんかしてね、糸井貫二さん。
女日照りなら女をあげようかと思ってね。
清信士女という・・・「清信士女を遣わして法師を供養せしめ」と法華経の経典の中にあるのね。でね、「清信士女像」という名前を書いてね、女性のはだかをへたくそに描いてね、このくらいの大きさに(両手を横いっぱいに広げて)巻物にして玄関先にぽんと投げてね、逃げてきた

会うのが怖いんだよ。何かで会う時は自然に話できたんだけどね。

訪問したりするのがきらいなのかな、人様を。だから、訪問ではないんだね。投げて逃げてきた。
糸井さんは、おそらく何者かがいたずらをするために投げて寄こしたのではないか、と思ったっていう話は聞いたけどね。
私はね、糸井さんのこと嫌いだとかいうんじゃなくて、好きだったんだよ。
いっぱいいろんなものを書いて寄こしてくれたね。
ただ、だんだん糸井さん政治的になってきたなって、その頃。
わたしは絵しか描きませんからっていう手紙をね書いた時に、黒い絵を封筒に入れてね、糸井さんのところに送ったことがあるんだけどね。こんな絵で毎日暮らしてんです、ってね。
ていうのは、いろんな作家たちを紹介したりとか何だかしてたんだよね。松澤宥(まつざわゆたか)さんかなあ、そういう人たちとかねえ、石川さんを紹介したからてな感じでね。名前が手紙で来てたね。
そんな感じで私はね、だいたい個人的関係を人に持つがらではないんだね、あんまりは。


西公園アートフェスティバルの時も本当は、(仙台)アンデパンダン展が終わって上の世代、宮城輝夫さんとかと縁を切ろうと思ってやった、って言ってましたものね。

I
宮城輝夫さんが参加できないようにした方がいいな、と思ったのはね、あるんだ。

それで、昭和生まれによる、とぜひとも付けろ、ってことでね。

S

参加条件を。

I

そう。そうすれば、糸井さんも。
それでもやっぱりおれの葬式の時にはお焼香に来たからね。


糸井貫二さんも結局来ちゃったんですよね。

I
そうなの。糸井さんは糸井さんでね、突然来たんだよなあ。
前から見ると黒いガウンなんだけど、後ろから見るとお尻丸出しという姿でね、西公園に。あ、糸井さん来た、とか言って見てたらね、くるっと後ろ向いたら全然お尻丸出しでね、あ、さすがだと思いながらね。
その時に何か埋めていったんだ、そういえば、葬式のために掘っていた、一応、私を埋めるための穴にね。
五十嵐次郎くんがまだ18才で、(身を乗り出して下を覗きこむ仕草)「おじさん何やってんですか」って、俺と女房と娘と三人で穴掘りしていた。
もちろん、穴掘りだしたのは豊島重之かもしれないし、その辺は分からん。そして俺は続けてそれを面白いから掘ってたのかもしれないしね。とにかく俺を埋めるんだ、ということで。
で、このくらいの(舜さんの背より高い)穴をまず掘ってね。で、それをのぞきに来た五十嵐次郎くん。
そして、そこに糸井さんが何か置いてったみたい。それがやがて市役所から電話かかってきてね。
市役所から電話かかってきたのもたまたま責任者が俺に当たるとは皮肉な運命だったんだけど、くじ引きした結果ね。で、まあいいや、と思って。
市役所から話があるのでって言われて、公園課に出向いたらね、「どういうわけですか」とかね、「こういう苦情が市民から来てますけども」ということで。
俺はそういうことっていうのはね、そんなに取り締まるべきことではないんじゃないかという話をしたわけ。
それはアンデパンダン展の時にもそう思ったんだけどね。
アンデパンダン展はあまりにも権威主義だなと思ったから私は非常に不快感を見せたことがあったけどね。
アンデパンダンというものがあるのかな、っていうのが、アンデパンダン的な感じというのがね、俺はなになに的というのはそういうものこそ敵だと思っているからね。


そのもの本来じゃないって感じですね。

I
自由な発想を妨げるものだと思ってるから。で、要するに、作品を描く人間としては、こういうふうでなければならない、とか、ああいうふうでなければならない、っていうようなものでもって、こう、人の丈を見るのかなあ、ってことは非常に良くないんだね。それで、アンデパンダンもそんな感じで開いてしまってそんな感じで終わってしまうんだけど、それにも非常に良くないことがあるんだけどね。
昆野勝さんのところに全部送りつけられてしまうとか。

S
何がですか?

I
アンデパンダンの出品作。

S
ああ、東京の取りまとめされてたのが昆野さんですもんね。

I
そして、今度は、昆野勝さんがサトウ画廊の馬場彬さんと親しかったんだ。で、馬場さんが電話寄こして、昆野勝にどうしてこんなことをされなくてはいけないんだ、って言ったそうだから。もう展覧会開けないじゃないか、こんなところにドンと・・・。

S
送り返されて、全部。

I
そんなに大きくないから。まあ、このくらい(このギャラリーくらい)だったんだけど、そんな小さいところにね。で、昆野勝さんは、また俺にだけ一生懸命いろんな愚痴をこぼすんだけど、そんな感じでね、アンデパンダン展はだんだん・・・。
で、アンデパンダン展の時に結果的に非常に主要な動きをしたのは、宮城輝夫さんだったかな。そして、無責任でもあったけど、俺から見るとね。
で、宮城輝夫さんとは、さっき言ったとおり、もっと若いころからの知り合いでもあったから。それで、宮城輝夫を外す展覧会が、西公園アートフェスティバルだった。
でも、やっぱり、俺の葬式にお参りに来たところを見るとね、縁はなかなか切れなかったんだね。

S
そうですよね。その後も。
じゃあ、ちょっと時間も押してきてるんで、最後まとめに入ってしまいます。この後も本当は面白い話がたくさんあって、聴けないのは残念なんですけれど、この後、舜さんはビールを飲むのを楽しみにしてますので、飲みながら、という感じで。

で、舜さんは、このように(後ろに並べられた作品を振り返りながら)、色調を抑えた絵を描いていた時代もあるんですけれど、最近は本当に色彩が豊かな絵を描いています。また、大作だったりもします。

ちょっとこれ、画集から取ってきたのであまりいいものではないんですけれど(プロジェクターに作品を映して)、(宮城県)美術館の大嶋(貴明)さんも書かれてましたけれど、色彩、特に紫が印象的な作品があってですね、何て言うんですかね、紫という色はあまり世の中でたくさん目にすることもないですし、日常であまり一度に目に飛びこんでこない色が、そして複数の時間と空間が混じって連結しているような不思議な絵に移行していきますよね。

まあ、舜さんからすると、これも風景画から自然な流れなのかもしれませんけど。
最近考えていることとか最後にうかがえれば。

I
この絵はなぜこういうふうになってきたかというと鳥海先生が関係してるんですよ。鳥海先生に見せたのがこの「にんにくとバケツ」、この絵なのね。で、もう一枚のは壊してないからね。それで、この絵を見せた時にね、「仙台くんは交響曲だな」って言うわけ。で、交響曲としてはなかなか素晴らしいもんだよな、と思うよ、って言われてね。しかし、現代は不協和音が絶対必要だよ、って、人の心をつかまえるためには、って。
そのわけは俺には分からないんだ、俺のためにはね、好きなようにやってるだけで。でも言われてみるとね、それこそ、さっきの川口軌外先生ではなくてもね、言われてみると、はい、って、こうなる(背筋を伸ばす)人間なんだね。

S
その言葉がずっと残ってたんですね。

I
はい、ってなってね、それで、不協和音のためにね、まだ東京に住んでたからね、仙台に帰ってくる前。東京から仙台に引きあげてきたのは、キッチンフライパンから引きあげてくるんだけど、でも、ちょっとこうやってずれてるのはね、東京にいる時代にね、鳥海さんが私の、この絵を見て、交響曲として美しい色の作品だな、でも、不協和音がないとダメだな、ってね。

全然それがね・・・何回でもわけ分かんないんだよね、その不協和音っていうのがね。最後に破くところまでいくのは、こっから(後ろの絵を指さす)来るのと、ひとつはね、本格的にキャンパスを切るんだけれど、これしかないな、という感じでオブジェ化していく感じかな。とにかく絵を描いているという感じではできないな、とかね。

S
不協和音を出すというのは、ですか。

I
絵っていうのは、何て言うんだろうなあ・・・やっぱり好きな色を塗ってるわけだからね。
で、その頃ね、鳥海さんは黄色が好きじゃないけれど、黄色の絵をね、発表し始めた時代でね、その頃あたりからね、「ピカドール」とかいうような扮装した馬なんだけれども。
鳥海先生が発表したものには「ピカドール」という牛を怒らせるために、槍でつついたりしてね、うんと怒らせたところに、闘牛士が現れて、一発で決めなくては、闘牛士が死ぬか、牛が死ぬか、っていう形でね。
それが鳥海さんにとっては、昔スペインにいた頃に非常に重要なものになるわけだけど、その不協和音ってね、何なんだろうなあ、って思うわけだよね。
きっと最初の色も、鳥海さんにとっての不協和音は血の色ではなかったのかな、とは思うけどもね。血ではないだろうと思うのだけれど。やがてね、赤が入ってくるんだけども、それも非常に控えめにね。「ピカドール」という絵の目のところに四角くちょっと赤が入るとかね。
それがわたしの絵でね、この辺がこれだなあ、と思ってるんだからね、そのくせね。そこの舌がちろっと出てる赤い色があるでしょう。この辺がね、鳥海先生が、俺に得意になって不協和音を必要だよとか言う部分だな、とかね。
俺はこれで、やったな、とかね、思ってるんだ、この色でね。

S
そういうことなんですね。なるほど、普段日常で目にする風景の色合いとは違う絵ですよね。

I
ちょっとね。それでね、だから、その辺が、わたしも夢中な部分になるんだけど。俺の風景画はね、そういう絵はなかったんだよね、この絵にしろ、この絵にしろね。これなんて、もちろん、誰にも見せなかったけど。

S
まあ、不協和音は、そうですね。

I
ないからね、これもないし、これもないし。あるとすれば、ここにあるのとそこにあるのの赤とかね、そこの、さっきのやつの赤とかね。そんな感じでね。
みんななら普通にできることがね、わたしには拒否してる色なのかもしれないしね。何て言ったらいいんだろうな。こういう色は使えねえよな、って感じでいる色を使うように、それまでにはすごく悪戦苦闘もあってね。
もう失敗ばっかし描いてた時代があったね、東京に住んでた頃はね。もうほとんど人様に見せられないようなめちゃくちゃな絵もいっぱい出たね。鳥海先生に不協和音と言われた頃。
もう何回も描いても描いてもダメだね。で、結局、やめて、キッチンフライパンに行って、食堂で働いたんだよね。出前して働いたりとか、そんなことになるわけだけど。
それで、仙台に帰ってきて。で、やがてキャンバスを切るとかね、ここの切り傷とかね、こうハサミでジョキジョキジョキ、切るんだね。それで切った時に、惜しいな、っていう気持ちが、この時にもあったの、その、惜しいという気持ちが、やがて縫い戻す仕事に発展していくんだね。

S
今日はあまり話せなかったんですけど、舜さん、絵を描かず、絵のキャンバスを切って裏返して縫い戻して、それを展示するとか、そういったこともやってらしたんですよね。

I
やったね。そして、それを絵にも描いたしね。そういうふうにしか見えないようなね。

S
だまし絵みたいな感じで、そういったふうに見える絵を今度は描いて飾ったりとかですね。

I
それは、意識化する、しっかりわたしは今、意識してキャンバスを切っていますよ、とかいうような気持ちも込めて、そういう絵も描いたんだけどね。

S
色彩も、使われる色数が多くなって、だんだんいろんなものから自由に、こだわりを捨てて自由になっている気がしますけれど、また舜さんの言葉で、「きれいな絵を描くというより、今は人を楽にするような絵の方が好き」っていう・・・

I
ことを言ってた?

S
ことを言っていた時があって。
この前お家にうかがった時も、あの、お坊さん・・・どなたでしたっけ?舜さんが最近好き、って言われてた絵の。あの、ブリヂストン美術館の(注:「出光美術館」の誤り)、誰でしたっけね、カレンダーで見せていただいた。

I
さっき話に出たのは、〇〇さんのこと?

S
いや、もっと昔の、誰でしたっけ・・・あの掛け軸みたいな。

I
あ、そっか。仙崖。仙崖さんって言って、俺がそのためにお墓を・・・臨済宗って言うんだけどね。
で、臨済宗の中でも雪舟っていう画家さんいるよね。雪舟があまりにいたずらばかりするので、子どもの頃、柱に結びつけられたら、足指で鼠を描いたので、その鼠を見て、そこのご住職さんがね、かわいそうだろう、って思って、そしたら、あ、描いた絵だったんだ、って、まあ、それは単なる説話なだけなんだけどね。
そのお寺の宗派があるのね。そして、俺が何でそういうことを、そのお寺を選んだかというと、私が取ったお寺の宗派が臨済宗のね、何とか派といったね、雪舟が小僧になった。
そして、そこからはいろんな絵描きたちや彫刻家たちが出てくるわけ。何でかと言うと、修業が・・・曹洞宗だね、これ。曹洞宗の悪口を言うのも、うんと、これも東京でやったことがあるんだよ、曹洞宗がなぜダメかについて。王子でしゃべったことがある。
それでね、曹洞宗は形をものすごく重んずるんだよね。曹洞宗の創始者は。ところが、臨済宗は修行してる時が悟りの空間に近いんだ、っていうか、ものを作ってる時か、修行というよりも。ものを作ってる時が一番悟りの境地に近いという考えをね、臨済宗の人は持ってる。
で、曹洞宗は形をものすごく大事にした、美しい座禅というかね、姿というかなあ、悟りの境地を姿で表す、お坊さんがね。

俺はそういうのは、もっとも苦手だからね。

S
今まで話を聴いていても、そうですね。

I
それでね、わたしは臨済宗なわけだ。
で、うちの菩提寺は法華経なんだけど。法華経でも政治的な法華経は苦手なのね、あの、そういった方たちも、ここにもいらっしゃるかもしれないけど。創価学会か、創価学会は俺、ダメなのね。そういう組織化してる世界っていうのかなあ。

S
あの、舜さんに見せていただいた仙崖さんの絵も、動物とか人間がニコニコしていて、すごく楽しそうな瞬間の絵を描きますよね。

じゃあ、ちょっと今日は、この後舜さんも残って飲んでいかれますので、ぜひ興味持った方はお話していただければ、と思います。

舜さん、この前うかがった時も新しい絵、大作を描かれていて、これからの絵もすごく楽しみにしてますので、皆さんも楽しみにしていてください。
今日はありがとうございました。

*○○の部分は聞き取り不能箇所。

 

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