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SARP企画

【展評】SARP・1 高山 登 展

2010.8.3 – 8.8
SARP 仙台アーティストランプレイス

「仙台アーティストランプレイス」の実質的な1回目の展示は、高山登のドローイング個展で始まった。

このスペースは、35年続いてきた「ギャラリー青城」という現代版画を中心としたコマーシャルギャラリーのレンタル部分を独立させたもので、美術家有志による自主運営の展示スペースとして、参加したい美術家がフィーを払うことで運営維持されていくものとなるという。ギャラリー青城は、仙台で唯一といってもよいすっきりしたホワイトキューブの展示空間を持ち、コマーシャルであることで作品が作家から自立していくための必要な回路が目にみえ、かつ、キャラクターのしっかりしたギャラリストが経営してきた。ここでの展示や様々な交流は、筆者にとっても、自分が美術家になる(あるいはなれない)ための経験のある部分をしめている。そこは、単なる展示空間ではなく、美術をめぐる人的な、あるいは制度的なことがぬきさしならない場であった。幸いにもギャラリー青城は完全に閉廊することなく存続することになったが、経営形態の変化が伝えられたとき、自主運営でこの場を維持していこうという有志が集まったことには、各人のこれまでのこの場での様々な経験にもよったのだと思う。
まずは、来年9月いっぱいの運営が約束されたが、そこで刺激的な作品の発表が続くことと、その作品が、作家運営の単なる展示空間ということにおさまらずに、見る側も積極的に関わり交錯する場をつくりだしていくことを願って書いておきたい。そのための方法はつくられつつある。

さて、暑い夏に始まった、実は、見かけは清涼な高山登のドローイングの展示。各作品には、作家のサインと《遊殺》(正確には、アルファベット小文字が順について1点ずつが識別されている)というタイトルが鉛筆書きされていた。耳つきの中判の用紙に2,3種類の水性の黒が混合されて(あるいは重ねられて)ドローイングされた作品が横または縦画面で箱形のフレームの中に浮かされ15点ほどが展示されていた。水を引いた用紙にドローイングされた黒の絵の具は同じ水性でもそれぞれのメデュームの性質の違い、あるいは顔料の違いから、分離したり、融合したり様々な性質を表し、素材の物性を強調している。
過去の高山のドローイングは、高山が物質感の強い素材を使ったインスタレーションの作家であるように、その時々で使われる材料は違ってはいるが、素材を強く、少なくとも、画像のイメージと同じかそれ以上にあらわにしてきた。しかし、このことは高山のドローイングを素材感に頼った趣味的で工芸的なものにはしていない。高山のドローイングの素材には、ドローイングする主体であったはずの高山という身体も、ドローイングの要素としての、素材としての身体となって含まれている。高山の身体は、抽象的ものであってもなくても、何かの像を再現するために統制的に働いてはいないのである。今回、展示されたドローイングでは、ドローイングする以前に決定されている図形や一種の記号的なパターンがあって、それの空間的な布置は一点一点冷静に制御されている。高山の身体は再現的な統制はとらないが、布置の制御はおこなっているようにみえる。(過去の、たとえば、「パフォーマンス・ドゥローイング」という用語を使っていたころの高山のドローイングではより没我的にドローイングしているものもある)

素材の物理的な性質とともに、画面に置かれた図形的なイメージは、想像を限定してしまうような像=イメージとは違って、想像を見る側にゆだねる。この無限定性は、有る意味、高山登の代名詞でもある枕木を使ったインスタレーションの物理的な空間の無限定さにも通じている。しかし、ドローイングの場合、インスタレーションと違って物理的空間は限定されやすい。インスタレーションでは大規模であればあるほど、また、より散在した布置であればあるほど、特権的な視点はなくなり、その中を移動しながら印象を積み上げていくことになる。ドローイングでは、その前に全体を見渡す視点が与えられて構図が成立しそれが一目で見えるものになるので、インスタレーションとは違った方法で無限定さがつくりだされなければならない。
インスタレーションにおいても、何でも良い的な無限定ではないように、ドローイングにおいてもその無限定さはいい加減なものではない。高山がおりにふれて書く、自分の制作論的なテキストにはいくつもの両義性や2項対立が使われてきた。また、高山の作品を論ずるときも多く、例えば、枕木を形態操作の単位として、つまりはモダンな造形としてとらえつつ、一方では、アンチモダンで実存的な物としてその意味が語られもした。しかし、高山の作品は、モダンな造形論とアンチモダンな実存論的な2項対立の範囲にあるのではなくて、いわば、プレモダンな象徴論(宇宙論といいかえてもよい)がふくまれた3項の重なりにある。(この象徴論的な3番目の概念は、組み合わされてできた例えばグリッドのような形態の繰り返しにあらわれている)この3項が、対立的に転換するようにあるのではなく、視覚上では、互いにすべりあって移行するようにある。インスタレーションでは、物理空間の無限定性だけではなく、この移行しあう3項もまた無限定さに一役かっている。

今回のドローイングではどうだろう。白地に黒の濃淡だけでドローイングされたそれは、光と闇や地と図のような2項対立を思わせる。たしかに、白地が明らかに光を感じさせるものもあるのだが、強く地と図のゲシュタルト的転換があるわけではない。決定的なのは、形態が水を引かれた地の上に置かれることで、地へにじみができていることだ。そのにじみは、両義的なあるいは2項対立的な場の相互浸透であるより、図から地への移行でもあり、地へなじみをつけているようにもみえる。
2項的な空間ではないとすれば、象徴論的な項は、最初に決定されている記号的図形とその画面上での位置にあらわれる。そして、図の中に潜勢的にあるいは顕在的につくりだされたテクスチャー(中には枕木的なものもみられた)と、図に刻印された身体=手の圧力。それらが、いわば、アンチモダンな実存論に対応している。無限定の平面上で高山のしているのは、図の布置とでもいうべきことで、それを決定づけているのは、モダンの絵画的な造形論だけではない。それは平面上での場の多重な読み取りと、それぞれの図形要素の場の支配率を重ね合わせたもの、いわば造形論と象徴論と身体性のアマルガム、空間の力学のようなものによるのではないだろうか。高山の作品が、そのメディウムや形式の違いであるよりは、場に働く力関係に基づいた事物の布置によることは、多くのインスタレーションやプリント、ドローイングにおいては共通している。それは、造形美術を超えて他の表現領域や社会においても成立するものかもしれないが、高山のレトリックの多様性にもつながっていく。
高山のドローイングは、インスタレーションの直接的なエスキースでもなければ、内的なイメージの簡便な表出物でもない。あるいは自由なイメージを探すためのワーキングドローイングとも違って、自立した形式を持った作品となっている。この自立形式は、高山が持つ、記号的な形や配置(それ自体はなんどもくりかえされる)を力学的に布置するために設定されているかのようだ。高山がテーマとして「自然」を言うとき、それは、通俗的なあの自然のことではなくて、むしろ、「無限定の場」とそこにあらわれる「身体」や「物質」などのアーティフィッシャルを超えた事物について言っているように思える。

高山が作家活動を始めた頃、その作家活動に平行して、インスタレーションという言葉が定着していったように、素描やデッサンから、ドローイング(ドゥローイングと多く表記されていた)とよばれる作品形式も一般化していった。それは、単に新しい用語というだけではなく、ある種の脱領域的な考え方で制作原理でもあったのだろう。1960年代、20世紀的なモダンクラシックの受容が終わり、新たな考え方が必要な時期だったのかもしれない。そして、ドローイングは、1980年代以降、用語の定着期とは違った新たな領域の侵犯や脱出の方法になったかに見える。高山のドローイングが一種の力学的な「無限定性」を持つために自立した形式を保持していることは、今、流行のドローイングとは一線を画してくる。かといって、それは単なる通俗的な抽象ドローイングでも、素材感だよりの装飾的な作品でもない。
今回の今年つくられた高山のドローイングは、ちょうど大規模な高山登展が宮城県美術館でおこなわれ、その作品制作が一段落して客観視する時期に重なって制作されたと思われる。今回のドローイングは今後の制作に先行する仮説的ものとしてよりも、むしろ、自家薬籠中にしたこれまでの様々な力学的布置を再確認するようなものではないだろうか。新たなスペースの1回目に高山のドローイング展ができたことは、それ自体が象徴的なことであるのかもしれない。高山の自立形式ドローイングに対する返歌のような作品があらわれることを期待したい。

大嶋貴明(宮城県美術館学芸員・美術家)

 

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